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真面目なエビデンスの話。

この業界の「中堅」と呼ばれる年齢になり、辺りを見回してみて、現在私が真剣に懸念していることがあります。

笑われるかもしれません。偉そうにと怒られるかもしれません。しかし、いつか誰かが言わなければいけないことだと思うので(もう私より大きな声で叫ばれている方がいても不思議じゃありませんし、既にいらっしゃるのかもしれません)、ここに書いておきます。


それは「業界内の知識格差が年々広がっている」ということです。

そして、この知識格差は「情報を探す能力の格差」から来ているのでは、と私は推測します。

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こういう時はどうしたらいいんだろう?これはどうしてこうなんだろう?と臨床で感じる疑問の答えを素早く的確に見つける能力が高ければ、じゃあこれは?あれは?と疑問が出てくるスピードも増し、それに比例して「回答された疑問」の数も増えていく。つまり、臨床経験年数を重ねれば重ねるほど知識量が爆発的に増えていくわけです。一方で、疑問が出てきても調べる習慣が欠如していたり、そのやりかたが分からなければ、学校で習った方法しか知らないままできないまま、それ以上知識が増えていくことはありません。学校を卒業したころのままで知識がほぼ止まってしまうことになります。

これが格差の生まれるメカニズムだと思います。


知識は現場で積んでなんぼだと仰る方もいるかもしれません。実践してこそ臨床であると。しかし、私が今回言及しているのは絶対的知識量の差。実践に繋がらない知識は意味がないというのは私も賛同しますが、知っているべき最低ラインの知識すらも持っていない臨床家は思いのほか多いではと感じているのです。私が責任を持ってお話できるのはAT界のことのみですが、私の見立てが正しければ理学療法士、作業療法士、柔道整復師やあん摩マッサージ指圧師、はり師・きゅう師でも同様の現象が起こっているのではないでしょうか。


この業界の「正解」は刻一刻と変わるものですし、「10年前」の正解を知っていて、それを「今」実践できることは全く大事ではありません。「今」の正解を「今」実践できることこそに意味があります。情報があふれる現代だからこそ特に、各臨床家が「今」の答えをいち早く選別し、掴む個々の能力の差が今如実に出始めているのかもしれません。

若い世代が賢くてベテランの知識が足りないとか、年齢のことを言っているわけではありません。確かに卒業したばかりの若い子の知識は皆似たり寄ったりで、差がつきにくい分、目立ちにくいことはあるかも知れませんが、医療界の「正解」は毎日ものすごいスピードでアップデートされています。年齢に関係なく、「情報を探す能力」が欠如している臨床家はあっという間には取り残されてしまうというのが現状です。現に、つい先月発表された「National Athletic Trainers’Association Position Statement: Evaluation, Management, and Outcomes of and Return-to-Play Criteria for Overhead Athletes With Superior Labral Anterior-Posterior Injuries」を読まずにO'Brien's Testの陽性を未だに「SLAP損傷あり」と解釈している卒業後一年目ATも全米にかなりの数いることでしょう。逆に情報にハングリーで、誰よりも真摯に学び続けているベテランの大先輩を私は何人も知っています。強調しますが、これは年齢の差によるものではなく、学びに対する姿勢と、その手段の有無の違いではないかと思います。



様々な意見があるでしょうけれど、私はこの業界で最低ラインとして業界全員が持つべき共通理解事項に、真っ先に『正しく「Evidence-Based Practice (EBP、エビデンスに基づく実践)」のコンセプトを理解し、そのやり方を知る』ことを挙げます。正しく遂行されたEBPは患者と臨床家の選択肢を増やし、最善の医療の選択をする上での基礎となる思考システムを構築・提供してくれます。EBPは、我々の臨床と患者の生活を豊かにしてくれるツールであるはずです。

「エビデンスの言いなりになるのはまっぴらだ」とか「エビデンスがあるものは逆に実践する気がしない」という意見を稀に見かけることがありますが、一般の方はともかく、医療を専門とする我々がそんな軽率な発言をしていてはいけません。そういう方は、まず心を一度オープンにして、EBPの本質を学ぶことを強くお勧めします。EBPは貴方に噛みつくようなものでもなければ、貴方の立場を脅かすようなものでも、貴方の選択肢を狭めるものでもない。くどいですが、貴方の思考の幅を広げてくれる道具のひとつなのです。使い方が分かってさえしまえば、実践していて非常に楽しいものであるというのは、私が個人的に大きな大きな太鼓判を押せます。


しかし、気持ちもわかるのです。同情心もあるのです。EBPという概念に全く触れる機会なく学校を卒業した方にとって(そしてそれは本人の努力や実力が反映されたものではなく、完全に「時代」という運による要素によるものでしかないのですから、皆さんのせいではありません。「不運」だったとしか言いようがありません)、EBPは独自で学ぶにはハードルが高く、とっつきにくいコンセプトです。さぁ学びやがれと言われても、どこから始めれば、という気持ちの方もいるでしょう。

教育者の端くれとして、学校を既に卒業をされ、学びの機会に限りがある方にもきちんとEBPとはなんぞやということを学ぶ機会を提供したい、と考えて私が私なりに構成し、何年もかけて作ったのが現在のEBP講習シリーズです。別に私はエビデンスのスペシャリストではないので、講師は別に私でなくても良かったのでしょうけど、それなりに本腰を入れて、EBPをきちんと学んでみたいと思う方を継続的に支援する教育システムが日本にもあってはいいのではないかと思って、こういうシリーズを作るに至りました。

現在定期的にオファーしているのが、
EBP基礎編: スポーツ傷害評価編
EBP基礎編: 治療介入編
EBP基礎編: 予防医学編

の、「基礎から応用まで一気に齧ってみよう」という基礎編3講習と、

EBP臨床応用編: 治療介入 - AMIと抑制解除療法
EBP臨床応用編: 治療介入 - 腱障害とリハビリ

の、「テーマを定めてそのエビデンスを掘り下げ、論議する」という臨床応用編の2講習です。

現在、年内を目途に以下の講習も鋭意作成中です。
EBP臨床応用編: 評価 - ACL損傷評価法
EBP臨床応用編: 評価 - 手首の痛み評価法

いずれは「予防」の臨床応用編も用意できればと思っています。

近日開催予定は以前にもお伝えした通り、

2018年7月14日(土)
9:30am-12:45pm  EBP基礎編 - エビデンスに基づく治療介入: 基本から応用まで
            *途中休憩15分含む3時間講習
12:45pm-14:00pm 昼食(各自)
14:00pm-16:00pm EBP臨床応用編 - エビデンスに基づく治療介入: AMIと抑制解除療法
16:15pm-18:15pm EBP臨床応用編 - エビデンスに基づく治療介入: 腱障害リハビリ

のみですが、希望があってそれなりの参加人数が見込めれば他講習も随時オファーできますし、依頼があれば東京外にも伺います。全てのご要望にお応えすることはできないかもしれませんが、興味のある方はとりあえずためらわずに一声おかけください。

結局私の講習の宣伝のようになってしまって申し訳ないのですが、これらは「この場合の正解はこれです、これしかないんです!」と指し示すような講習ではなく、「こういう時に、こういうデータがあるとして、どういう風に考えたらいいと思います?」とエビデンスを発信源として「思考する」練習をする、「情報の吟味をする」練習の講習なのです。私がEBPという概念を学ぶとしたらどういう構成が最適か、自分なりに推敲を重ねて作った内容です。私が知る限り、これだけEBPの基礎理念に重きを置いてデザインされた講習シリーズは他にないのではと思っています。私の知識が足りないだけで、実はそういった講習に溢れていたらズケズケと失礼なことをすみません(その場合はこんなのもあるよーと是非教えて頂けたら嬉しいです、EBPを学びたいんだという方にそういう情報を今後もシェアしていきたいと思っていますので)。EBPが臨床の全てだとは思いませんし、EBPを知っていれば皆一流の臨床家なのかと言われたらそんなことは当然ありません。しかし、最低限の統計学の知識や、エビデンス用語の理解なしにいっぱしの臨床家にはなれないとも思います。こういった講習を通じて少しでもEBPを楽しく実践する方が増えてくれればと思っています…。

*以前にも書きましたが、これらの講習は参加資格は一切設定しておらず、学生さんも大歓迎です。こういった内容を今通っている学校で直接学べるのが一番だとは思いますが、そうでない場合もあるかとは思いますので。EBPを学ぶのに、早すぎるということはないと思います(そして私も長年大学生相手にこれらを教えていたのですから、難しすぎるということもまたありません)。

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  by supersy | 2018-05-19 18:30 | Just Thoughts | Comments(0)

本帰国にあたって思うことその3。教育に携わるものとして成し遂げたかったこと。

8年間の米大学での教育者生活を振り返ってみて、つくづく自分には向いてなかったなぁと思います。私は献身的ではないし、他人にserveすることに人生の喜びを見出すタイプではないからです。やっぱり自分で自分の興味の赴くままに勉強しているときに勝る喜びはないです。自分勝手な先生でごめんなさい。色々と至らず、学生に申し訳ない思いをさせることも多かったかも知れません。

でも、ひとつだけこの大学で8年間勤務して、私が影響力となって変えることができたこと、誇りに思うことがひとつだけあります。それは「人生とは一生学び続けることである」ということを態度で示せたことです。
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私がこの大学に来た8年前は、スタッフも教員も数が今よりも少なく、空気が滞っていた感じがしました。それぞれが日々の仕事をこなすのに精いっぱいで(そしてそれは当時の環境を考慮したら仕方がなかったのだとも感じています)、スタッフや教員たちが自ら全米を飛び回って新しい技術や知識を手に入れようとしたり、論文を読んでその内容を共有し合ったりという文化や習慣がなかったのです。10年前のままのコンセプトの治療アプローチを繰り返すスタッフたちに私も驚きましたし(あまり喜ばしい驚きでなかったことは言うまでもありません)、休みを見つけてはいそいそと講習に出かけていく私に「よくやるわね」と呆れた顔をする同僚もいました。

そしてそういった空気は学生にも伝染るものです。私がここで教え始めたころの学生の学習態度はお世辞にも積極的とは言えず、実技中心のクラスでは最低限のことだけをパパパッと終わらせ、「もう帰ってもいいですか?」と言う学生が多くいたりもしました。真面目に取り組む少数の学生が周りに「何頑張っちゃってるの」と笑われ、バカにされている風景を目にしたのも一度や二度ではありません。

ワタクシゴトではありますが、私は中学校や大学でバカにされる側に立ったことがあります(不思議と、高校では一度も経験しませんでした。同じような思考の人間が同じ場所に集まりやすくなる「高校受験」という日本の学校システムに私はもっと感謝すべきなのかも知れません)。先生の話を黙って聞いていたり、期限内に宿題を出したり、テスト前にやるべき勉強をしていたりしただけなんですけど、「良い子ぶって」「ガリ勉」「Overachiever」「You are making us look bad」と言われ、なかなかに不愉快な思いをしました。別に貴方たちが頑張らないのは勝手だけれど、私は楽しいと思って好きでやっているの、自分でやらないと決めたなら一人でやらなきゃいいのよ、どうして他の誰かを一緒に引きずり落とさないと気が済まないの?と疑問に思ったりしたものです。

現代は、真面目な人がバカを見る社会だと言われます。正直者は損をするそうです。でも私は真摯に毎日努力を重ねる学生が褒められ、称えられ、応援されるような文化をここに作りたかった。学ぶ楽しみがイマイチまだ分かっていない子たちには「あれっ、勉強って楽しいんだ!」と気が付いてほしかったし、それに既に気が付いている子たちには「楽しいって声に出して言ってもいいんだ!」と安心してもらえたらいいなと思ったんです。

学びの場は、どんな子たちにも平等に安全であるべきです。楽しいことを楽しいと声に出して言っても誰にも攻撃されないし、ちょっと背伸びして挑戦し、結果失敗してしまっても誰にも責められない…そんな学びの土台となるSafe Learning Environment(安全な学習環境)を提供することが教育者としての最低限の責任じゃないかと思ったのです。

なので私は学生をとことん褒めました。普段あまり頑張らない子が頑張ったらその変わろうとする瞬発力を、毎日頑張り続ける子はその持続力を褒めました。人前で、こっそり私のオフィスで、とりあえず目を引いたことがあれば「なんと素晴らしくよくやっていることか!」「お前ら偉すぎるな!」と躊躇せず褒めました。そしたらあらあらびっくり。意外なことが起こり始めたんです。「Sy、あの子、こんなところをよく頑張っているよ!」と、私が気が付かなかった「良さ」をこっそり教えてくれたり、下級生が上級生を「ありがとう!こうしていつも教えてくれて、とても感謝している」と、上級生が下級生を「私が忘れかけてたことを質問してくれてありがとう!復習するいいきっかけになった」と、お互いがお互いを褒めるようになってきたんです。褒められることが「once in a blue moon (ごく稀にしか起こらないような希少な現象)」ではなく、「努力したら確実に起こる日常的な現象」に変わり、褒められる機会を奪い合わずともシェアしあえるということに学生らも自分たちで気づき始めたのかも知れませんね。うちの大学に来る学生は(お恥ずかしいのですけれど)決して頭が良いわけではないので、あまり勉強で褒められるという経験をせずに大学まで来た子も多かったのかも。褒めらえることでの楽しさを、学習して「分かるようになる」楽しさに結びつけてくれた子も多く、目の色を変えて勉強に励みだす子もこの大学で数多く見てきました。
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「うちの子全然読書をしないんです、どうしたらいいでしょう?」
「貴方は子供の前で楽しく読書をしていますか?」
「いいえ、していませんけど、どうしてですか?」
…という笑い話(?)がありますけど、学生さんに、そしてスタッフさんに学び続けてほしかったら、一番有効なのは「自分が楽しく学んでる姿を見せること」だと思ってきました。たまに学生やスタッフさんに「もう充分に知っているのに、どうしてそんなに勉強するの?」と聞かれることもありましたが、「君は教わるなら10年前の『正しい知識』を食いつぶしながら生きながらえている教授からがいいかい、それとも嬉々として常に『今の正解』を追い求めている教授からがいいかい」と返すとみんな「むぅ…」となってましたね。

ワクワクする論文を見つけたら独りオフィスで小躍りしたり、新しいPosition Statementが発表されたら「みなさーーん!でーまーしーたーよー!」と全員に共有したり、授業中に突然「あ、脱線するんだけど昨日読んだ論文の話してもいい?」と言い出したり、学生・スタッフさん対象の定期勉強会を開いて、学校内外からゲストを招いて「ガッコウでは習えないこと」を共有する機会を設けたり…。我ながら型破りの教授だったかも知れませんが、「人生分からないことだらけ」「When you finish learning, you are finished」「living is learning, learning is living」を地でいってた妙な自信だけはあります。

8年経って、ここを改めて見渡した時に、生き生きと勉学に励む学生の姿や、「今度はこんな勉強会に参加してみようと思っている」と話してくれるスタッフの顔を見て、いやー頼もしい、ここでやるべき仕事は一通り終わったかなという気がしています。滞っていた空気はすっかり流れるようになり、色々な情報が風に乗って流れ込んでくるようになりました。いいですね。気持ちがいいです。

新しい文化を作り、それを根付かせるにはかなりの時間がかかりました。私は辞める時には基本的にはきれいさっぱり跡形もなく、「いたっけ?」と言われるくらいに残り香の「の」の字も残らぬよう、消えるようにいなくなりたいと目論んでいるのですけど、唯一願わくば、この文化だけは私がいなくなっても続いていってほしいと思います。

…とはいえ、いなくなる立場で「これだけは続いてほしい」なんて今の職場に願うのは傲慢ですかね。せめて次の職場でも私はこうあり続けたい、一緒に働く人たちと積極的に学ぶ姿勢を絶やさず楽しくワイワイやっていきたい、とは思っています。

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  by supersy | 2018-04-19 20:30 | Just Thoughts | Comments(4)

Nothing will ever be "scientifically proven": 一流の人間が「科学的に証明された」という表現を嫌う理由。

SNSをやっていると変な人もいっぱい見かけますが(笑)、おっ、この人は良質な情報を、丁寧に言葉を選んで発信しているなぁ、プロとして見習いたいなぁ、と感じる嬉しい出会いがあることも多々あります(そういう方を私が一方的に知って喜んでいるだけなので、「出会い」という表現は大げさかもしれませんが)。

以前『女性医師 vs 男性医師?「死にたくなければ女医を選べ」は本当なのか』という記事でその論文について書かせてもらった津川友介さんという現UCLA大学助教授さんがいらっしゃるのですが、その方が4月に「世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事」というタイトルの本を出版する、という情報をツイッターで目にしました。津川先生は(前述のとおり一方的にですが)「良質な情報を丁寧に発信される方」だと見知っていたので、あらあら是非この本を手に取ってみたいわ、と思った反面、そのタイトルには少し引っ掛かるものを感じたのも事実です。率直に言ってしまうと「世界一シンプル」や「究極」はともかく、「科学的に証明された」という部分が、良識のある方が選んだにしてはあまりにキャッチーな誇張を含む表現じゃないかと感じたのです。しかし、先生の一連のツイートを見てなるほどねーと納得しました。




ちょっとつらつらと思ったことを書きますね。

「科学的に証明された事実」というのは「AはBである(A equals B)」とか、「AをすればBが起こる(A causes B)」とか、ちょっとやそっとのvariable(環境、状況付随する不確定要素)をいじってもびくともしない、絶対的に普遍な事柄(= The Reality)のことを指します。つまり、「AをすればBが起こる」という文章には「Aをすれば(いつなんどきも、誰が対象でも、どんな状況でも例外なく絶対に)Bが起こる」という隠された言葉たちが潜んでいるんです。見ていただければわかる通り、これらは非常に強い表現で、一切の限定性を許容しません。

はっきり言って、ここまで強い口調で断定できる事実なんてそうそうないんですよ。

もちろんこの多少のことではビクともしない「普遍的事実」を追いかけて、それをなんとか「証明」しようと研究者たちは日々努力を重ねているわけですが、研究で導き出せるのは限定的な関係性でしかありません。どんなに丁寧に研究をデザイン・実行しても、ひとつの研究で得られるのは「この環境、こういう被験者でこういう条件で実験を行ってみたらAがBを起こしました」という部分的な結論のみなんです。

例えば「平均年齢30.3歳の男性被験者200人を集めてAをやってみたらBになりました」という研究を受けて「へー、AをしたらBになるということが証明されたのか」という結論を出してしまうのは飛躍がすぎる考えで、これはOvergeneralization (過剰一般化)と呼ばれます。だってこの研究は被験者を女性に変えても同じ結果が得られるか、とか、被験者の年齢が50歳の場合はどうなんだ、とか、そんな多角的な検証を含んでいないからです。この研究が提供してくれるのはあくまで「snap shop(その一瞬、その場にいるメンツでぱちりと撮っただけの一枚の写真)」で、いつなんどき誰にでも当てはまる「普遍的な事実」は証明されきれていないのです。この非普遍性をより正確に表現しようと思ったら「AをしたらBになるということが報告(reported/documented)された」「可能性が示された(indicated)/示唆された(suggested)」という言い回しがより適切ですし、実際に論文などを読んでいて先行研究を振り返るような描写がある際にはこういう動詞しか使われません。

もうひとつ例を挙げます。例えば例えば、「ゴハンを食べたらウンチが出る」というのは極めて普遍的な事実で、科学的証明はきっと簡単だろうと思うでしょう?いえいえ、そんなことはないんです。実際にこの仮説を検証しようと思ったら、ありとあらゆる年齢層、性別、文化的背景の被験者を世界中から集めてゴハンを食べてもらって、実際にウンチが出るかどうかデータを取らなければいけません。中には深刻な腸梗塞を患っていて食べても食べてもウンチが出ません、という患者さんもいるでしょうし、逆に「私はゴハン食べなかったけどスムージー飲んだだけでウンチ出たわよ」って被験者さんもいるでしょう。そうなるともう「ゴハンを食べたらウンチが出る」という「絶対普遍的(であるはずの)事実」はアッという間に崩れてしまいますし、そもそも検証を行う前に何を「ゴハン」と定義すべきか(固形物限定なのか、飲み物の形態でもいいのか…)という用語の定義、コンセプトの共通理解も必要になってきますし、便秘気味かもしれない人も考慮して、「ゴハンを食べてからウンチが出るか確認するまでの期間は2日間と定義する」とか、色々と作らなければいけない約束事もあります。その場合、2.1日後に出たウンチはウンチと認められないわけ?と憤慨する人もいるでしょう。…ね、「事実」を科学的に検証、証明するって思った以上に骨の折れる、厄介なことでしょう?
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ドットアートっていうのがありますよね。ひとつひとつの「点」をキャンバスに落とすことで大きな像を作るという。研究者が追いかける「普遍的事実」が全体像だとしたら、一つの研究はそれに貢献するかもしれない(しないかもしれない)一つの点に過ぎません。「像」を完成させるのは、何千、何万人の研究者が何百年という時間をかけてポチポチポチと点を描き足していく必要があり、まぁそれはそれは気の遠くなるような作業なんです。研究者さんたちの気の長さには心から感服します…(ここらへんが私が研究者に向かない理由のひとつです)。

良識のある専門家は、「AをしさえすればBになる」と「事実」として何かを断言することがどれだけ難しいか知っています。今まで研究者が丁寧に積み重ねてきてくれた「点」に最大限の敬意を払うためにも、誇張を含む言葉を使わず「AがBということは有り得ますが場合によってはCという可能性もありまして…ここまでは報告されているのですが、ここから先はこういった検証をしてみないことには…」と言葉を選びながら丁寧に丁寧に表現するのが普通です。しかし世間一般の多くの人が知りたがるのはやはり「断定された事実」…つまり、結局全体像はなんなのよってところなのです。ウン時間寝れば長生きできる!とか、これさえ食べれば痩せる!とか、そういう無責任でテキトーで、解釈に難しくなくインパクトのある文句に目と興味を惹かれてしまうのです。ここにギャップが生まれるわけです。

普通に発信していては、この情報が一番届いて欲しいPopulationに情報が辿りつかない。ここで敢えて今回のキャッチーなタイトルを被せてきたのが編集さんのプロのマーケティング力ってやつなのかもしれません。津川先生自身もこの試みを「社会実験」と呼び、「正しい内容の本が軽いタイトルで売れるようになれは、それはそれで良いのかな」と仰っています。確かに、手に取らせたらあとはこっちのもん、ってところはありますよね。そこで初めて内容で勝負できる。逆に、手に取ってもらえなければ何もできない。私も今回のこの「社会実験」の結果に非常に興味があるので、果たしてこの本がどれだけ世間の心を掴むこととができるのか?わくわくしながら動向を見守りたいと思っています。

(あ、もちろん本のほうも帰国したら是非実際に読んでみたいと思ってます!)

ちなみに非医療従事者の方向けの「医療情報の読み方」で私が何かささやかでもアドバイスできることがあるとしたら、「文献引用表記の無い情報はまず読む価値がない」ということです。引用がある=信頼に足る情報であるとは限りませんが、引用がない=信頼に足らない、という公式はほぼ間違いなく全ての医療情報に当てはまることだと思います。専門家が書く文章はどんな対象に書かれたものであっても(専門家相手のカクカクの文章でも、一般の人相手のカジュアルな文章でも)必ず文献引用を伴わないといけません。それが丁寧に一つの点を置いてくれた研究者への最低限の礼儀ってものです。その礼儀の心もない方がまともなリソースを使ってまともな文章を書くとは思えないのです。

それから、本当に文章を書くのが上手な方は、文章のどの部分が誰の研究からのデータで、どこまでがその研究者さんの解釈で、どこからが著者独自の見解なのか、そしてどこからが筆者の(根拠に基づかない)個人的な意見なのか、はっきり区別して書いています。ここが曖昧な文章も、やはり怪しいと思ってください。

世間の皆様をがっかりさせるつもりはないのですが、世の中の殆どの事柄に対する答えは「It depends (時と場合による)」。真実とは「AはBだ」のような短絡的で断言可能なものでなく、「この場合はAに、あの場合ではBに、そして例外的にこういう状況ではCにもなったりします」という不格好で含みを持たせたものであるほうが圧倒的に多いのです。この曖昧さを少し気持ちが悪くても、仕方ねーなーと受け入れる心をお持ちください。情報の受け手である貴方が自らの責任で情報を吟味し、考え、それぞれの判断を下す手間をどうか面倒くさいと思わないでください。皆様自信の健康に関わることならば尚更です。個人的な意見とお願いではありますが。



ちなみに私も今回のブログのタイトルで少し「実験」をしています。私の仮説は以下の通りです(笑)。

1) 英語で始まるタイトルにしておくと、「お前絶対読んでないだろ!」と突っ込みたくなるアメリカ人の友達が絶対に一人はFacebookでイイネをしてくる。
**ちなみに私の知り合いでGoogle翻訳を駆使したりして、日本語で書いてあるこのブログを無理矢理読むツワモノもいないことはないのですが

2) 「一流の人間が~」などのチープな煽り文句を使うと、本当に一流の人間は「じゃあ自分ならきっともうやっていることだろう」と判断してこのブログを読まない。よって、このブログ記事に辿りつく人間の殆どが一流になることを夢見る二流三流の人間である。
**これは誰かを侮辱する意図はないので読み流してください…でもこんな長ったらしい文章を最後まで読んでくださった皆様は間違いなく超一流であることでしょう。ありがとうございます。

さぁ、マーケティングのセンスが皆無の私ですけど、この狙い、当たりますかね?

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  by supersy | 2018-03-23 22:00 | Just Thoughts | Comments(6)

本帰国にあたって思うことその2。アメリカンフード。

私見たっぷりに書くと、アメリカと日本とでは日本のほうがご飯が美味しいです。ちょっとだけではなくて、格段にです。

ええっと、もう少し細かく正確に言うと、アメリカでも日本でも、高いお金を出して食べる「高級食」のレベルはもしかしたら同じくらいかも知れません。マンハッタンの高級レストランのご飯はそれはそれは美味しいことでしょう(食べたことないけど)。しかし、いわゆる「大衆食」のレベルが全く違うのです。職業柄、私は大学と言う場所でだいぶ長いこと働いていましたけど、例えば普通大学なんかで食べる学食って日本は安いものですし、バリエーションもありますよね。小鉢でサラダや煮物などの付け合わせが手軽に足せたりもできます。一方、アメリカは選択肢も少なく、値段設定はむしろ高いくらい。「色々なものを少しずつ」「なるべく彩り豊かに」という日本食と違い、アメリカ食は基本「一種類を山のように」「色は茶色が基本色」という感じで、多くの食事に塩か油か砂糖が入りすぎているというイメージです。くどいですが、個人の感想です。
(一例ですが、下はアメリカの中・高校で出る典型的な給食です。写真はインターネットで見つけたものですが、私は中・高校勤務経験もあるので言わせてもらうと、私が見た限りではこれと殆ど同じか、寧ろもっとひどい印象でした)
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でも、アメリカにももちろん美味しい大衆食ってあるんですよ!たまについつい無性に食べたくなっちゃうやつがあるんです…。私が日本に帰ったら食べられなくなって、時々「きー!」となるんだろうなー、というアメリカンフード五選を無意味にここに挙げてみます。


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1. Chipotle Mexican Grill
これが食べられなくなるのが一番不安です…一か月に2回は食べてるんで…。私の定番はCarnitasのBowl。ブラウンライスにブラックビーンズ、マイルドとコーンのサルサたっぷりにレタス多め。辛めのレッドソースはサイドに付けてもらって、好みで量を調節しながら食べるのが◎。最近発売したQuesoは…Quesoだけは…大失敗だったけど。


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2. Zaxby's
Raising Cane'sとほぼ同じ感じなんですけどね、一応Zaxby'sのほうが創立が少しだけ早いし、私が先に出会ったのもフロリダ時代のZaxby'sだったので個人的にはこっちが好きです、やっぱり懐かしくて。特製ソースがやみつきになります。ガーリッキーなトーストもさくさく美味しくて、コールスローの野菜付きなのも嬉しい。


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3. In-N-Out Burger
実はこれ、つい最近初めて食べたんです。テキサンとしてはWhataburgerが一番美味しいって言わないと怒られそう(Corpusが発祥の地)なんですが…あれ、ぺにょぺにょぺちゃぺちゃだしそんなに美味しいかー?よくわからん。バーガー系ではFive Guysも美味しいですけどあれは量が不必要に多く、30代半ばの胃袋にはキツイので、バーガーも小ぶりでポテトもさっくり揚がってるIn-N-Outがアメリカバーガーチェーンの中では一番美味しいと私は思います。また行きたいです…。


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4. Cracker Barrel
アメリカン・ブレックファストと言えばこれでしょう!IHOPとも少し迷ったのですが、バターの風味が香ばしくて私好みのパンケーキはこちらだし、分厚いカントリー・ハムやハッシュブラウン・キャセロールも、飲み放題のコーヒーも少しばかり味が格上だと思うのでCracker Barrelにしました。店員さんにはランキングがついていて、どの人もてきぱきニコニコ極上のサービスをしてくれるのも特徴的です。もう一回くらい行きたいなー。


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5. Mac & Cheese
これはどこのチェーン店のもの、というわけでもないんですが、このマカロニ&チーズは日本で言う「ツナマヨのおにぎり」くらいには確立されたメニューです。そんなに美味しいというわけでもないのに、ホテルのビュッフェとかにあるとついついいつも取ってしまう魔力があります。ソウルフードなんで、そのソウルに吸い込まれるんですかね…。これも恐らく日本では食べる機会が無いので、むしょーーーに食べたくなってしまうかも。


こんなことを言ってはいますが、日本に帰ったらゴハンが美味しすぎてコロッとアメリカンフードのこととか忘れたりなんかしてね。寿司、天ぷら、フジヤマー!アメリカに来る機会のある皆さんは、機会があったら是非ここらのチェーン店試してみてください。特にChipotleは、日本人にも受ける味だと思います(先日仲間内で、『あれなら日本でも流行るんじゃ?』と話していたら『あの値段($7-8くらいはする)では無理でしょ』と言われてしまいましたけども)。

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  by supersy | 2018-02-08 20:00 | Just Thoughts | Comments(3)

本帰国にあたって思うことその1。英語。

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小さいころから公園で泥んこになりながら遊ぶのが好きなタイプだったので、英才教育とは無縁な幼少時代でした。英語に関しても、英会話を習うといったような特別なことはせず、同級生と全く同じように、中学校、高校と義務教育の一環としてフツーにフツーの英語を学んできた…だけといえばだけなんですよね。イズディスアペン、ノーイットイズントと先生の後をついて復唱していたわけですよ。英語が苦手科目だったわけではありませんし、学校のテストでもそこそこの点数は取れていたんですけれど、実際にそれを使って誰かとコミュニケーションする場があったわけでもないですからね。高校の時に「あー…このままいっても英語を話せるようにはならないだろうなぁ…」「どちらかというと苦手意識が残るかも…」「英語が話せない、というのがいつか自分のコンプレックスになってしまいそうだなぁ…」と漠然と感じたのは覚えています。

なので、全く別の理由で「大学は、アメリカに留学するという選択肢もあるかな?」と思い始めたときに、「ついでに英語を一度本気で勉強するいい口実にもなるじゃないか!」とも気が付きました。アメリカへ留学するとなったら英語やらないわけにはいきませんからね。自分を「やらざるを得ない」崖っぷちに追い詰めて、必死で全身全霊全力かけてやって、なんとか壁を越えてえいやっと話せるようになっちゃえばこの「将来コンプレックスになるであろう種」を未然に摘んでしまえるじゃないかと思ったんです。

ここらへんのロジックは今思い返してみても、「なかなか先見の明のある17歳だったな」と自分を褒めたくなります。言い訳のできない環境に自分を追い込んでおいてよかった。おかげで今、英語の文献を読むことを苦痛には感じませんし、英語でスピーチしろと言われて冷や汗をかくこともありませんし、英語で道を聞かれても(なぜか日本でよくある)ドギマギせず「あの背の高い茶色い建物の向かいあたりっすかね」と教えることができます。別に英語ができるから自分は他人より偉いわえっへんと言ってるわけじゃなくて、自分自身の中で「英語ができない」ことを言い訳にしたり、足かせにしたりして自分のやりたいことに対して躊躇したり、卑屈になったりすることがなくて良かった、と思うのです(まー英語以外の理由で卑屈になることは相変わらずありますけども)。

私は日本でフツーに育った日本人だったので海外に出るまでは気が付きませんでしたが、もうひとつ喋れる言語があるというのは純粋に、本当に、面白いことです。今私の脳は「日本語脳」と「英語脳」、それから「非言語的思考脳」みたいな三部構成になっていて、日常生活を送っているときはそれなりにその全ての部分にてらてらと血流が流れているのですが(日本の番組のDVDをバックグラウンドに流しながら英語で仕事したりしてるから)、例えば英語で面白い論文を見つけて「おっ?おっ?」と夢中で読んでいるときなんかは「英語脳」に血がめきめきと流れて活性化されていくのが分かるし、日本に帰国して日本語で講義をしているときは「日本語脳」がこれまためきめきと覚醒してくるしで、その「脳の言語スイッチが切り替わる感覚」が楽しいんです。英語で深い深い思考をしているときは日本語が邪魔に感じますし、日本語で美しい文章に触れているときは英語脳はちょっと黙っとけ!となったりします(笑)。どっちにも、浸かりたいときにどっぷりいける感覚が楽しいんです(…とかいって、ぼーっと考え事しているときに急に逆言語で話しかけられると日本語と英語が混ざった自分でもよくわからない言語が口から出ることがありますが)。物事の表現方法も日本語と英語では違いますし、考え方を二通り抱えて生きているような気分にもなります。バイリンガルの人は喋る言語によって性格が変わる、なんて聞いたことがありますけど、それは本当にそうなんじゃないかなと思いますね。

とはいえ、世界各国で話されている言語は何百、一説によれば何千とあります。英語が全てじゃありませんし、英語以外にももうひとつくらい言語が喋れたらなー、勉強する機会があればなー、と私も妄想してみたりもします。でも、英語を習得した経験から、「そんな生半可な『喋れたらいいな』程度の気持ちでは一生もうひとつの言語を習得することはないだろうな」ということくらいも分かります、分かっちゃいます。いろんなタイプの人間が世の中にはいるのでしょうけれど、あくまで作られたバイリンガルの私は生まれつき言語センスが特出しているわけでもないので、言語を習得しようと思ったらその言語環境に自分をimmerseしなければ無理です。5-6か国語とか喋れる人ってすごいですよね、そういう人の脳みそ、覗いてみたい…。
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日本人は英語ができない。
このレッテルは我々自身が作り上げているもの。アメリカ人はカタコトかどうかなんて気にしない。完璧にやろうとせず、失敗を恐れず、伝えたいという意志を持つことだ。めちゃくちゃな英語でもとにかく自信を持って話せ!…という日本人向けの文章を目にしたことが何度かあります。これは、例えば海外の人と一緒にホームパーティーに参加する、とか、留学生として授業に出席する場合だったらその通りだと思います。間違いを気にせず、伝えたいという意志を全面に出して、ガンガン適当でもとにかく話しちゃえばいい。

しかし、これはあくまで自分がお客さんの立場や、相手と対等の立場の場合にのみ「acceptable」なのであって、自分が海外でプロとして仕事をしている(もしくはしようとしている)ときにカタコトの英語では絶対にダメだと私は思います。カタコトの英語だから話を聞いてくれないヒトなんて実際は沢山いますからね(カタコトでも話を聞いてくれるって、相手が自分に興味を持ってくれているって前提で成り立つものじゃないですか)。

医療職であるAthletic Trainerも、教職としての大学教授も、相手あっての仕事です。患者さんに、学生に、伝えたいことを明確に伝える、プロとしてプロらしくどっしりとした自分を見せる、相手に安心感を与え、この人は信頼できると感じてもらい、質問があるなら遠慮なくぶつけてもらえる環境を作る…ということができなければ話になりません。それを自分は日本人だから日本訛りが強くてもいいんだ、カタカナ英語でもいいんだ、というのは自分へのハードルを下げているだけだと思うし、それでアメリカ人と対等やそれ以上のお給料をもらおう、ビザをもらおうなんて考えは甘いとも思います。カタコトで話されたらどんなに賢い人でもやっぱりuneducated, unconfidentに見えるし、信頼は得難いものですから。つまるところプレゼンテーションの問題だと思うんです。それなりの知識と技術を持ったプロとして、「自分」という人間のプレゼンがうまくできてない、ということになるじゃありませんか。

私は18歳という、言語を新たに習得するには遅すぎるタイミングで渡米しました。16年間の米国生活で発音や言い回しはそれなりに上達したつもりではいますが、やはりどうしても抜けないアクセント(訛り)というのがあり、なかなかどうしてネイティブのようには完璧には発音できません。渡米以来、とにかく周りの発音を聞いて一生懸命真似したし、覚えたフレーズはとりあえず使ってみたし、現在でも発音のややこしい単語を授業で言わなきゃいけないときは事前にインターネットで発音聞いて、こっそり幾度も練習してから授業に臨みます(笑)。その裏には、やっぱり「ネイティブみたいな完璧なアメリカ英語を話したいんじゃー!」というエゴがあるんです。そういうエゴやプライドも、立派な学習動機としてアリだと思いませんか。それを、「完璧なんて目指さなくていい、日本人丸出しの英語でもいいから話せ」と、わざわざ否定することもないと思うんですよ。アメリカでそれなりに腰を据えて勉強・仕事をしようと思っている若い子たちは、「どうせ日本人だからキレーな発音や華麗な言い回しはできっこない」ではなく、「ネイティブみたいに英語喋りたい!」というしっかりとしたエゴを持って、完璧な英語目指して、毎日少しずつ努力を重ねていってください。おねーさんは応援しますよ。高みを目指すのは悪いことじゃない。

つまり何を言いたいかというと、ここまで習得しかけた英語、日本に帰国して忘れたくないなーと…。恐らく今のように日常的に英語で講義をする、ということはなくなるので少し不安です。帰国された皆さん、英語力維持のためにどんなことをやってらっしゃるんでしょうか?英会話教室でも通うのが一番確実でしょうか。駅前留学、しようかな…。自宅で英語のドラマや映画DVDを流す、とか?ちょっと工夫しないといけませんねー。

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  by supersy | 2018-02-05 11:15 | Just Thoughts | Comments(0)

「平均への回帰(Regression to the Mean)」を考える。

嘘か真か、今話題の藤井四段(プロ将棋棋士、14歳で日本記録の29連勝という偉業達成)が「今は勝敗が偏っている時期で、いずれ『平均への回帰』が起こるのではないかと思っています」と発言した、というニュースを目にしました。藤井四段、14歳とは思えない豊富な知識と語彙力で、本当に素晴らしいプロだなぁと33歳のおばさんは感心しきりなわけですが、この『平均への回帰』というコンセプトについてちょっと書いておきたいと思います。本当は別に書かなきゃいけないことがあったんですが、まぁそっちは後回しにします(笑)。

下に、私が最近実際に回答をしなければならなかったテスト問題に酷似した問題を示します(実際の問題を非医療分野に私が勝手にいじって変えたものです)。さぁ、皆さんはどう回答しますか?理論立てて説明をしてみてください。



とある学校に一学年8組のクラスがあります。この学校では、英語のテストを行うたびにあまりにこの8クラス内・外において点数にばらつきがある(=上がり下がりが毎回激しい)ことが教師間のミーティングで「改善点」として上がりました。一貫性のある学習成果を出そう、ということで、新たな学習試みとして「椅子を取り払った立位での英語授業」というシステムを導入することにしたのです。
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さて、そんなわけでこの一学年8クラス全てに「英語実力テスト(pre-test)」を実地し、点数が高かった上位4クラスはそのまま問題なしという解釈で「今まで通りの机と椅子(↑写真左)」での授業を、下位4クラスは改善の余地ありということで「椅子を取り払って立位(↑写真右)」での授業をそれぞれ4週間実践しました。

4週間後、再び8クラス共通の「英語実力テスト(post-test)」を実地。いよいよ結果の比較です。

点数を集計してみたところ、前回の実力テストと比較して下位4クラスの点数が著しく上昇し、上位4クラスの点数は逆に著しく下降していました。この結果から、教頭は「椅子を取り払って立位で行う英語授業は有効である」という結論を出し、「(この学年のみならず)全ての学年で英語の授業は立位で行う」というシステムの拡大を謳うべきではないか、とあなたに提案しています。さて、あなたはこの学校の校長先生です。あなたは教頭先生のこの意見に反対ですか、賛成ですか?それはなぜですか?理由も含め、回答しなさい。



もちろん、前述したようにこの「問題」は私が勝手に作ったもので、実際に立位での授業が生徒の学習に有効かどうか、私は全く知りません。あくまでこれは例として、上の「新たな教育の試み」を「介入」として考えたとき、「真の介入効果」を見極める上でこの「研究デザイン」にどういった欠点があるかを指摘できるかがこの問題のカギなのです。

●最大の問題点
この「研究デザイン」の最大の問題点は「グループ分け」にあります。実力テスト(pre-test)を行って上位・下位4クラスでそれぞれに分類したとありますが、注意すべきは問題文のこの一文です。

テストを行うたびにあまりにこの8クラス内・外において点数にばらつきがある(=上がり下がりが毎回激しい)

…ということは、この上位4クラスは「たまたま」この実力テスト(pre-test)で「実際の実力以上の」いい点が取れたクラスたちなのかも知れなくて、一方で下位4クラスは「たまたま」「実力を発揮できずに」悪い点数になってしまっただけなのかも知れませんよね。クラス内・外でのパフォーマンスが元々アップダウンが激しく、一貫性がないのが問題だとすでに示されているのですから、「この実力テスト(pre-test)の点数を元にグループ分けすることがそもそもの問題である」のです。
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この状態で2回目のテスト(post-test)を行えば、例え何も介入を行っていなくても、自然と上位4クラスの点数はクラス本来の「実力」である平均値に近づくように下降し、同様にたまたま悪いパフォーマンスが出てしまった下位4クラスはクラス本来の「実力」である平均値に近づくように上昇するでしょう(上図)。こうして、パフォーマンスを繰り返せば繰り返すほど偶然の要素が相殺し合い、本来あるべき値、つまり平均値に数値が近づいていくことを「平均への回帰(Regression to the Mean)」現象と言います。

言い方を変えるともう少しわかりやすいですかね。例えるならこの研究デザインは、サイコロを振って5や6が出たクラスと1や2が出たクラスをわけ、「次のサイコロは何が出るかな?」と言っているようなものなのです。次に振るサイコロの値は、サイコロの目の平均値(=(1+2+3+4+5+6)/6)である3.5に近づく可能性が高い…つまり、さっき5や6が出たグループは次のサイコロの目がそれよりも下がる場合が多く、1や2が出たグループは次のサイコロの目の値が下がる可能性が高くなるわけです。

(RPGにおいて、全く同じ攻撃力で敵を攻撃し、「かいしんのいちげき」が出た組と攻撃を「ミス」した組に分けた感覚にも似ています。次の攻撃は、おそらく本来の攻撃力に見合った一発になる可能性が最も高く、相手に与えるダメージ値は両グループ共に似通ってくるはずです。つまり、「かいしんのいちげき」組はパフォーマンスが下がったように見え、逆に「ミス」組は上がったように見えますが、本来の攻撃力は両グループ共に等しいわけです)

話をテストの点に戻しましょう。今回の話のpre-testとpost-testの「値の変化」は真の実力の推移を反映したものではなく、あくまでの統計学的に平均値は変わらないまま、自然と生まれるパフォーマンスの質そのもののゆらぎに起因する可能性が十分にあります。それを考慮した上で、私は「…以上の理由から、上位のクラスは失敗をするように、下位のクラスは成功をするように(意図的ではないにせよ)仕組まれた、不公平な研究デザインである。実際にこの学習法が効果があるかどうかを断定するにはエビデンスとしては不十分」と指摘。教頭の判断は時期尚早で「私は不賛成」とし、1) 8クラスを「ランダムに」グループわけすること、2) n数を増やすこと、3) Baseline時にhomogeneityを確立することを改善点として挙げ、再度検証をすることを勧めました。皆さんの回答と比べてどうでしたか?



パフォーマンスはいつの世も「ゆらぐ」ものであります。もちろんその「ゆらぎ」をどう本番に持ってくるかもプロは考えてしかるべきなのでしょうけれども、だからといってシンプルに一時の数字だけで ―一試合の勝敗で、打率や防御率で― ヒトの実力が上がった下がったとも一概に言えないのです。黒星が続くこともあれば、白星が続くこともある。しかしそのデータを積み重ねれば重ねるほど、その人の真の実力というものが見えてくるわけです。

藤井四段は誰よりもまっすぐその長くプロの道を見据え、「たまたま」続く白星に感謝をしながらも、これから来るであろう黒星も見据え、ゆらぎを考慮に入れながらも実力そのものの向上に向かおうとしているのではないかなという私の勝手な印象でした。願わくば、彼に黒星がついたときや続いたときに「絶不調」や「スランプ」なんて言葉を使う大人は少なくあってほしいものです。そんなときは言いましょう、「それは単なる平均への回帰ですよ」、と。

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  by supersy | 2017-06-28 16:15 | Just Thoughts | Comments(2)

アメリカの根強い銃社会。

全然医療と関係ない話ですが、個人的に思ったことを少し。
テキサス州では新たな法律が制定され、8月から大学内でConcealed Carryが合法的に許されるようになりました。つまり、今まではキャンパス内では原則銃の持込は禁止だったのが、「Concealed = 隠している状態ならば持込ok」になったのです。そもそも、Concealed CarryとOpen Carryの定義すら普通の日本人は知りませんよね?Concealed Carryは「本人以外誰も武器を持っていることが分かりえない状況」を指し、逆に銃を堂々と他人に見えるように持ち歩くことをOpen Carryと言います(↓)。
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もうちょっと詳しく言うと、銃の一部が少しでも見えていたり、見えていなくても形から「銃である」ことが推測が可能だったり(↓)、言葉で「実は銃を持っている」と明かしたりそれに近いことをほのめかしたりすることはConcealed Carryという法を犯した行為になります。大学内ポリスからは、こういう行為が見られた場合、「法律違反」なのですぐに警察に連絡するようにと言われています。私もつい最近までこういったことは全く知らなかったのですが、大学内の教授対象の銃に関する勉強会やトレーニングに出させてもらって必死に勉強中です。
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Concealed Carryは教授陣にとってはなかなか恐ろしい法律です。我々の立場が人の恨みを買いやすいものだからです。例えば私なんかは、授業に来ない、クイズもテストも受けない/勉強してこない学生が数字的データに従って"F(不可)"をもらうのは当然のことだと思うのですが、そういう学生こそ「風邪引いていたんです」と情報を後出ししてきたり、「奨学金もらってるアスリートなのでこの成績だとプレーできないんです。特別課題などして点数を稼ぐことは可能ですか」などとごねてくるものです。「事後報告の場合は医師からの書類がないとその訴えが妥当かこちらも判断しかねる。提出してもらえますか」「アスリートだからと優遇しては、他の学生に公平にならないので貴方だけに特別課題は出せません。授業内の課題で必要点を取る必要があります」とこちらも一貫性ある対応を心がけてはいますが、彼らは「公平さ」では納得しないことが多く、腹を立てた学生が声を荒げたり脅迫してくるなど、そのやりとりでこちらが危機感を感じたことは今までにも数回あります。もしたまたまその時に彼らが銃を持っていたとしたら…?と考えるとゾッとします。

何故こんなことを書いているかというと、今日は大学警察がホストするActive Shooting Training(キャンパス内に銃を発射している人間がいる場合の対処法トレーニング)に出席してきたからなんですけど…。内容がふわふわしていて余計に不安になりました。

勉強になったのは犯人がバリケードを蹴破って教室に入ってきた時の対処法(モノを投げながら一気に近づいて羽交い絞めかノドを攻撃)とか、警察が突入してきたときの対応の仕方とかなんですけど(警察に向かって走っていってはいけない。指を指そうとしたり、携帯を持っていると銃らしく見えて発砲されることがあるので、動かず、両手を挙げて手のひらを見せるetc)、我々の多くが抱える問題が「教えてる教室の多くが中からの施錠ができない」「ドアが廊下に向けて広がるタイプなので、内側からバリケードが作れない」ということなんですよね(↓この写真のバリケードも、教室内に向かってドアが開くタイプだから有効なのでしょう?うちの建物のは全部逆なのです)。
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これについてポリスは「各教授が自分の使う教室のドアの数、位置、タイプを確認して、施錠できないタイプの場合は各自道具を購入して開けられない状態を作れるようにしてくれ」というゆるーいアドバイスしかくれなくて。え?それって我々個人の責任なの?施錠できないドアがどうしたらsecureできるかなんて、私の専門外じゃないし全然わからないんだけど…とますます混乱中です。せめて大学側が積極的にcollegeやdepartmentレベルで「この建物でshootingがあった場合、避難所はここ、ドアの対応はこう…」という場所別の緊急用プランを作り、我々にトレーニングを積む機会を設けるべきだと思うのですが…。「とりあえず銃が入ってくるから。あとはよろしく」では、生粋の日本人の私は特に対処に困ります。やはり銃社会、怖いです…。

そんなら教授陣も銃を持ち込めば、と思う方もいるかもしれませんが、大学の建物の中でも一部は「Concealed Carryも禁止区域」に指定されており、うちの大学ではNCAAの規則に則って、アスレティックスのイベントで使う可能性のある施設は全て「特別禁止区域」という規制が課されています(スポーツイベント事は人々が感情的になりやすいからという理由だそうです)。選手の治療施設であるAthletic Training Centerもその対象のひとつで、この施設内にオフィスがある私は銃を持ち込むことはできません(↓下の写真はうちのAT Centerの目の前のここから先は銃持込禁止サイン)。まあ許可されていても私は銃を持ち込もうとは思わないんですけど。
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これだけのゴタゴタというか…不利益がありながらも銃の存在がありきということこそがアメリカの根強い銃社会の実態なんだよなぁと実感しています。特にテキサスは皆銃が大好きなので、「銃そのものの所持を全面違法にしちゃえばいいのに」なんて私がぼそっとでも言おうものなら袋叩きにあうことでしょう。日本人の私にはなかなか理解しがたい現状です。まあ私が理解するにせよ、しないにせよ時は流れていくので、不思議だなぁと思うながらも地味にもうちょっと勉強続けてみたいと思います。本音は、そんな暇あるなら論文のひとつでも読んでいたいんですけどね。。。

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  by supersy | 2016-09-23 17:00 | Just Thoughts | Comments(0)

遺伝する感情。

これは全然ATに直接関係ない内容なんですが、しばらくつらつらと考えていたことで、どこかに書き残しておきたかったので。備忘録のような内容ですみません。

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恐怖は遺伝する、という実に興味深い現象が動物実験によって2014年に実証されているんですね。1 それまでは赤子は親の感情を見ながら良き悪きを学ぶ(=「お母さんが怖がっているのだから、悪いものに違いない。僕も怖がろう」)、というsocial learningのコンセプトが主流でしたが、この研究では『母親が恐怖だと思った対象に生まれた子が初めて接触したとき、子も同じように恐怖を覚えるのか?』という感情の遺伝性について調査しています。
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Debiec & Sullivan1 が行った実験は至ってシンプル。メスのネズミに「ペパーミントの香りがすると電気ショックを受ける」というペアとなる刺激を繰り返し、恐怖を刷り込ませておいて、そのあと妊娠・出産した赤ちゃんネズミがペパーミントの香りを恐れるかを検証するというものでした。実験結果をみてみるとあら不思議。学習された「恐怖」は母親ネズミ妊娠前に刷り込まれたものであったにも関わらず、赤子もちゃんと初めて嗅ぐ「ペパーミントの香り」を恐れたというんですね。ネズミの赤ちゃんは生まれたばかりでは目も開かず、耳も聞こえないため、母親と同じ巣にいる状態で示したこの反応が「母親の行動を見て、それを真似たもの」であることは考えにくいのですが、念の為、と研究者は1) 親ネズミが巣にいない場合と2) (刷り込みをされていない)代理母ネズミが赤ちゃんネズミと一緒にいる場合なども検証。母親ネズミがいる、いないに関わらず、赤ちゃんネズミはペパーミントの匂いを嗅ぐと恐怖を示すという結果が確認されました。

母親が「後天的に」学んだ恐怖が、世代を超えて子供に「先天的に」植えつけられるようになる、というのは実に興味深い発見です。この「恐怖の遺伝」が一世代という短い期間で起こり、少なくとも2世代先まで伝えられることが別の研究2でも実証されています。母親のみでなく、父親が学んだ恐怖でも同様の遺伝が起こるようです。2 文字通り、感情が遺伝子に刻まれるわけですね、考えてみると面白いです。
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元々感情って生存確率を上げるために大いに意味があったものだと思うんですよね。我々が脂肪分や糖分のたっぷりのケーキやピザを食べて「おいしい!」と思ってしまうのも、それらが非常に効率のいいエネルギー源で、それを食べてきた種や個体が多く生き残ってきたからこそ。逆にカラフルな色彩を持つヘビやカエルやクモを見て「なんかやばい、怖い」という感情を持つのも、こういった生き物が毒を持っていることが多く、「恐れる」をいう感情を覚えた種や個体がその毒にやられることなく生き延びたからでしょう。

上に紹介した実験で検証されていたのは「恐怖」に限定したphenomenonでしたが、生存と言う観点から考えると「喜び」の感情も遺伝されてしかるべきという気もします。これらも是非似たような研究で見てみたいものです。例えばペパーミントの香りを嗅いで、同時に餌を与え続けると、子供もペパーミントの香りを嗅いで興奮するようになるのかとか…。面白いのが「ペパーミントの香りを嗅ぐと興奮する母親」と「ペパーミントの香りを嗅ぐと恐怖を感じる父親」と交配させたときですね。遺伝として、喜びと恐怖と、どちらの感情が勝つのか?もしくは母親と父親、どちらの遺伝子力がより強いのか?様々な研究ができそうです。わくわく…。あとは、どれだけ早く遺伝をひっくり返すことができるのか?先天的に「ペパーミントの香りは怖い」という遺伝子をもって生まれてきた子供に「ペパーミントの香りは実はいいものだ」と真逆のことを覚えこませ、それを遺伝子に上書きするのに一世代で十分なのか、数世代かかるのか?今のところ、「遺伝子の感情によるアップデートは我々が思うより早い」ように私には見えるので、ここらへんもすごく興味があります。

科学的な観点から、この結果を自分たち自身に反映させると、これもまた面白いディスカッションが引き出せそうです。何を遺伝子に残すか、その究極のコントロールをしているのは我々の全てのDriving Forceの源である脳のはず。ヒトに渡される遺伝子すら感情によって書き換えられるのだとしたら、我々の所有物である脳が受ける影響はそれよりも大きいのではと私は考えます。湧き上がる感情に引っ張られ、脳は刻一刻と変化する…『脳の可塑性(neuroplasticity)』というコンセプトが改めて浮かび上がってくるんですよね。我々のなかで日々うねっている「感情」は我々の脳に確実に刻まれ、そして恐らくその脳が「これは後世に伝えるべき重要な感情だ」と認識したら遺伝子にも書き残されるということになるんではないかな、と思うのです。
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あなたが「好き」で見ると興奮するような事柄を、あなたの子供も同じように「好き」になるのでしょうか?となれば、あなたが「大嫌い」なものも同様にあなたの子供は「嫌う」のでしょうか?あなたが「これは子供に遺伝して欲しくないなぁ…」なんて思う感情はありますか?そうであれば、手遅れになる前にあなたの感情そのものも修正すべきでしょうか?ううむ?

例えば私は少し潔癖症なところがあって、回し食いなどできないタイプの人間なのですが、自分の子供はそんなに神経質にならないといいなぁ、なんて無責任に思います。ふふふ、我ながら、自分を棚に上げてなんて勝手な欲求でしょう。自分に起こる「いやだな、汚いな」という感情をもう少しコントロールできるようになれば、後世にも良い影響が残せるかも知れません(笑)…少し努力してみようかな。なんだか頭の中を、小さな誰かに覗かれている気分です。自分の頭の中の感情で影響を受ける人が未来にいるのかもしれないと考えると、少しばかり背筋が伸びますね。

1. Debiec J, Sullivan RM. Intergenerational transmission of emotional trauma through amygdala-dependent mother-to-infant transfer of specific fear. Proc Natl Acad Sci. 2014;111(33):12222-12227. doi: 10.1073/pnas.1316740111.
2. Dias BG, Ressler KJ. Parental olfactory experience influences behavior and neural structure in subsequent generations. Nat Neurosci. 2014;17(1):89-96. doi: 10.1038/nn.3594.

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  by supersy | 2016-08-26 17:00 | Just Thoughts | Comments(0)

オンラインで受ける医療系質問について思うこと。

こういうことを書くと叩かれそうですけど、思ったことを徒然と書いてみます。
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このブログやSNSなどでたまに面識の無い方から、「こういう怪我があるのだけどどうしたら」「医者にこう言われたけど納得出来ない、どう思うか」などのメッセージを頂くのですが、私の返答はいつも「すみません、ここではお答えできません。適切な医療機関を受診し、医療従事者さんに聞いてみてください」です。

別に面倒くさいとかかったるいからそう答えるわけではなくて、これには大きな理由が2つあるのです。

ひとつは、プロとしての責任です。私が怪我をした選手と話すとき、一言一言選びながら、今、選手の身体で何が起きているのか、治療にはどんな選択肢があるのか、プレーを続ける場合どういうことを気をつけなければいけないか、自分の出来る限り精一杯説明します。選手の表情を見て、性格を考慮に入れながら、不安に思っていないか、不満はないか、分からないことや説明不足なところはないか、何度も確認します。選手にもいっぱい話してもらって、選手の人生で今何が起こっていて、何を大切に思っていて…そういうものに対する理解も深めながら、一緒に最良の選択肢を模索し、決定します。そうして決めた選択肢の責任は全て自分で負うつもりですし、上手く行かなかった時は自分の職や医療ライセンスを失う覚悟もあります。(実際、うちのコーチに「この選手はリハビリを実によくやっています。改善が見られない原因は全て私の力不足です。今日からは治療方針を切り替えて、こういう風に攻めてみたいと思っています」と正直にお話をしたこともあります)

オンラインのやりとりでは、どうしてもこうした顔を合わせたやりとりができません。患者さんの生活や気持ちが見えてきません。共有していただいた情報の中から、あーそれはこうかもね、と一見『答え』に見えるようなものがあったとしてもそれに私は100%の確信を持てませんし、そんな適当なアドバイスだけを投げ返すのも不本意です(極端な例ですけど「リンゴ食べたいです」という人に「じゃあ食べればいいんじゃないですかね」と言って、リンゴを食べたその人が実はリンゴアレルギーで死んでしまうようなことがあったら…?)。それでも質問をしている方からしたら「深く考えないでとにかく知っていることを教えてよ」と思うのかも知れませんが、私は私の言うことやることひとつひとつ「プロによる医療行為」として捉えられる立場にある故、ありとあらゆる可能性を考えるクセがついてしまっていて、無責任なこと、中途半端なことはどうしても言えないのです。貴方のことを既に診た医療従事者さんの発言を否定しかねないことなら、尚更です。

もうひとつは、医療行為が無料サービスであってはいけないという私の個人的な信条です。例えば、私は車についての知識が一切ないので、愛車のメンテナンスは多少高くてもきちんとしたディーラーさんのところでお願いしています。サービスも格別ですし、部品を交換する場合にも正規のパーツが揃ってますし、私の車も長く面倒見てもらっているので「ここは前回やったのでまだいいですね」「そろそろこっちは変えておきますか?」と顔見知りの修理工さんがくれるアドバイスもありがたいです。私には車はでかい金属のカタマリにしか見えませんが、修理工さんの目にはきっと全くベツモノに見えているのでしょう。専門知識というのは実にすごいもんだなーと思うわけです。私の持ち得ない・し得ない知識や労力に「ありがとう」の気持ちを込めて客として素人の私が対価を払うのは、当然だと思っています。
非医療専門家と医療従事者の関係もこうであって欲しいと思います。患者さんが「なんとか健康を取り戻したい」と思っていて、そのための医療知識や行為に価値があると感じるなら、是非正規の医療機関にきちんとかかり、引っかかっていた質問をして、心ゆくまで説明を受け、その上で気持よくその対価を支払ってもらえればと思います。だって貴方が会うそのお医者さん(もしくは理学療法士、アスレティックトレーナー、etc)も、沢山の時間とエネルギー(…と、恐らく沢山のお金)を費やして、その専門知識を得たはずなのです。これからの医療の発展のためにも、それは端折らないでもらえたらなぁというのが私の正直な気持ちです。(特にアメリカのAT界はまだまだ業界そのものがブラックで、待遇は正直今でもひどいです。良い医療を提供している自信があるなら、我々はもっと、提供した医療サービスの対価にきちんとお金を受けとる、ということに対して上手にならなければいけません)
もちろんそれにあぐらをかいて、医療従事者側が「ビジネス」を始めてしまったらダメです。絶対にダメです。回避できる手術を無理に勧めたり、効果の無い高い薬やサプリを買わせたり…。私だって、車の修理工さんに必要のないパーツの買い替えとか強制されたら腹立ちますし、二度とそんなところには行きませんもん。プロが持てる最高のものを提供する。受け手が感謝し、対価を払う。そういう大前提が、相互信頼があってこそ、この構図は成り立つのだと思います。我々医療従事者からしたら、私たちはプロとして背筋を伸ばし、最善の医療サービスを提供できるよう、どんな患者さんにも真摯に向き合うことを心がけなけれないけませんし、患者さんは患者さんで、ロクに質問にも答えてくれない、2時間待たせて3分しか話してくれない医療従事者など価値なし!と見切りをつけて、他に信頼に足るプロを見つけるべきです。そんな理想的な医療従事者などそうそういるものか、なんて言わないで!一般の方が思うより、心から患者を良くしたいと考えている真面目な医療従事者は多いです(私の友人らは、そんな人ばっかりです)。逆に考えると、今のうちにそういう専門家に出会って良い関係を築けたら、これからの長い人生心強いと思いませんか?時間とエネルギー、それなりに費やす価値があることだと思うんです。

別に今まで質問をしてくださった方々にバツの悪い思いをしてほしいわけでも、反省してほしいわけでもないんです。特定に人に書いているつもりもありません(どちらかというと、皆さん勤勉なのだなーととても感心感動しているくらいです)。ただ、私はずーっとこういう風に考えてきたニンゲンなので、本当にここではお力になれなくてすみません、ということ、そしてこれからも、この医療界で働く他のプロを信頼して、「是非専門の医療機関を受診してみてください」と言い続けてしまうであろうこと、お許しくださいませ、と伝えたくて書きました。具体的な症例に関しては役立たずな私ですが、相変わらずコメントや批評はいつでも大歓迎です。とくに、トピックに関しての「こんな文献もあるよー」なんて、涙を流して喜びます。拙いブログですが、気とお時間の合う方はこれからもお気軽にお付き合いくださいませー。
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  by supersy | 2015-11-13 21:00 | Just Thoughts | Comments(0)

iPhoneユーザーの皆様: メディカルIDの機能を上手く活用しよう!

今回は全然濃い内容ではないのですが、どうしても書いておきたくて…。
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例えば貴方が独りでふらりと出掛けた先で突然倒れて意識を消失するようなことがあったとして、周りの人が救急車を読んでくれたとしても、救急隊医院や搬送先の病院のお医者さんが貴方の医療情報を全く把握できていない、もっと言うと貴方の名前も、緊急連絡先も分からない、なんてことは充分に有り得るわけです。日本は、アメリカと違って運転免許や州発行の写真付きIDを持ち歩く習慣も限られていますしね。

医者としては、患者さんに意識さえあれば、どんな病歴か、アレルギーはあるのか、など、いち早く適切な診断と治療にたどり着くのに欠かせない情報を直接問診を通して得られるわけですが、意識消失している患者さんだとそうはいかない。現場で歯痒い思いをしている医師や看護師さんも多いと聞きます。

そこで便利なのがiPhoneのヘルスケア(英語版では"Health")のアプリ!
私も今までほとんど使ったことが無かったのですが、ここから"メディカルID"に飛ぶと…
貴方の名前(写真も追加可)、生年月日、持病や受傷歴、アレルギーの有無や身長体重、血液型、臓器提供の意思表示など、様々な情報を登録することができます。もちろん全項目を入力する必要は無く、自分が適切と思うものだけで充分です。個人的には持病(例: 糖尿病、喘息、高血圧など)、アレルギー(例: ピーナッツ、蜂、ペニシリン)、長期的に摂取している薬などは記入しておくことをオススメします。アレルギーが無い場合は、何も記入しないのではなく、『無い』と明記しましょう。医療関係者間では、"NKA" (No Known Allergies = 把握しているアレルギーは無し)もしくは"NKDA" (No Known Drug Allergies = 把握している薬物アレルギーは無し)という略語も一般的に使われるので、そう記入してもいいと思います。
それから、登録してある電話帳の連絡先から、『緊急連絡先』を選ぶことができます。例えば配偶者の携帯番号や、家族、知人など、複数人追加可能です。既に保存してある連絡先を選び、関係(父・母など)を選ぶだけなので、これも2タッチですむようにものすごくシンプルにできています。
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  ヘルスケア(右下)を選び          メディカルIDを選択        自分の医療情報を入力
*この時、『ロック時に表示』をONにしておく

これを設定しておけば、もし貴方以外の第三者が緊急時に貴方のロックされた状態の携帯を触れることがあったとして、左下の『緊急』ボタンを押した時に、『メディカルID』という選択肢が出るはずです。これを開けば、先ほど入力した情報が全てと、『いつ更新したか』の日時が出ます(これは医療従事者にとっては大事な情報になります。最近更新した情報ならかなり信頼できるし、古いものならば、『これを入力してからどういう持病の悪化が考えられるだろう?』と色々想像が出来る)。
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備えあれば憂いなし!
万が一の時に医療のプロが適切な対応ができる、その手助けになることは元気なうちにしておきましょう。私はiPhoneの回し者でも何でもありませんが(これは製品の宣伝目的でも、アップルからお金をもらってるわけでもありません、念の為)、医療従事者の端くれとして皆さんが活用できそうな情報はどんどん発信していきたいと思っています。iPhoneをお持ちの皆様、是非こんな機能も確認してみてくださいませ!
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  by supersy | 2015-09-09 23:30 | Just Thoughts | Comments(0)

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