憎しみはヒトの永久的エネルギーになるのか。
例えば自分の存在そのものを否定するようなヒトがいるとして、
そういった人間の発する心無い一言が自分を打ちのめすときがある。
人生に誰でも、一度はそういう経験があるのではと私は勝手に思っている。
この文章を読んでいる皆さんにも、自分の人生を少し振り返って考えてみて欲しい。
ないだろうか。今でも忘れられない、どういう思考回路をしたらそういう言葉を発せるのだろうかと思う、研ぎ澄まされたナイフのような切れ味を持った一言。こういうとき大概は言う側はやけに無邪気なものだ。とうにその本人は言ったことすら忘れているのだろうな、と冷静に思うのだが。
しかし言われたほうはそう簡単には消せない。その言霊はずっと自分の奥深くに残り、
気まぐれに時として表面に現れて、癒えかけていた古傷をまた深く抉る。
忘れていた、と思っても、浮き出てきたときの胃がドロドロになったような不快感に懐かしささえ覚える。“そうだった、まだお前はここにいたのか”と諦めのような虚しさのような感情に、しばし圧倒することを許し呆然としてしまう。
空虚ののち、その後に自分に溢れ出てくるのは、怒りと復讐の炎。
そうだ、あれだけは許せない、もう一度あれを許すわけにはいかないと、
自分を突き動かすエネルギーになる。
こうして留学してからのこの6年間、私は突き進んできた。
疲れた、辛い、ちょっと足を止めて休みたい。
弱い自分が出てきそうになるたびに、自ら古傷を抉るように自分の底から負の感情を搾り出し、それをプラスのエネルギーに変えてきた。自分を否定する存在を、現在で否定するために。もっと簡潔に言えばそういう人間を見返すために、“今は足を止める時期ではない、走り続けなければいけない”と自分に言い聞かせてきた。いや、言い聞かせなどしなくても、莫大なエネルギーが自分の中に沸いてくるのを感じた。その一言を思い出すだけで、自分に容赦なく残酷にすらなれた。考えるだけでエネルギーになる。言うなれば、黒く強大な魔法の言葉だ。
慣れてしまえば、こんなものはもう“作業”に近い感覚になる。
しかし、復讐がモチベーションというのは、やはりどこか非常に悲しいものだとも同時に思う。
憎い、だから、動く。この理由付けは幼稚で稚拙だ。幼稚園児の喧嘩のようなものだ。
それは重々自覚している。
この夏でもう25才になる。
ここまではこうしてやってきたけれど、もういい加減オトナになるべきなんじゃないのか。
この言葉から自分を解き放ってやってもいいんじゃないのか。気持ち良く前に進みたいじゃないか。
そんな葛藤がここのところ少しあった。だから、自分で大きな決断をした。
もう一度、その人物に会おう、と。
もう二度と会わないと、自分の人生から蹴り出した存在ではあったが、もう一度その人に、いや、あの頃の自分に、チャンスをあげてもいいのではないか、と。あそこからやり直さなければ、私は一生前に進めない。実に、6年振りの“前向きな決断”だ。
その決断をした当初は、“あの発言を撤回させたい” “謝罪してほしい”と思っていた。
だが、少しまた考えるうちにそれも変わった。
自分が本当に欲しているのは撤回でも謝罪でもない。
ただ、今あの人物がどう生きているのか、自分がどう生きているかをもう一度見ることで、こんなのは自分であってはいけない、自分はこうあるべき、と過去に積み上げた概念を取り払うこと。
現在も過去も全てひっくるめて受け入れること。
吸収し飲み込み、取り込んでそれを自分の一部として認めること。
言葉を、言語を、超越すること。
そうしてもう一度自分に触れてみて、自己形成をしなおすこと。
そう。これが正しい。
そう納得したところで、また次の疑問が沸いた。
復讐心を失った私は、どうなるのだろうか。
負の感情の持つエネルギーというのは素晴らしい。それは、色褪せないからだ。
どれだけ肉体的精神的に疲労していてボロボロでも、ひとたび自分の心に炎が宿れば一瞬でそんなものは吹き飛ぶ。どこに隠れていたのかと思うような強いエネルギーを引き出してくれる。
一方で、悲しいかな、“自分はこうありたい” “こういう風になりたい”というポジティブな指標たちは内面的イメージでしかない。残酷な現実が突きつけてくれたものとは違い、視覚的でないし、臨場感に欠けるのだ。当たり前だ、自分はまだそれがどういったものか知らない。身をもって“経験”したことがないのだから。
だから、時として充分なエネルギー源にならないことがある。
こうなりたい、でも今は疲れている。ええい、少し休んでしまえ。たまにはいいじゃないか。
そんな風に自分に甘くなってしまうのが怖い。
“知らない”からこそ、度々想像して何となくイメージとして自分の中に形成するから、
それらは徐々に新鮮味を失ってしまうのだ。慣れてしまうのだ。
たぶんこのくらいやっておけば届くんじゃないかな、と考えてしまうのが怖いのだ。
憎しみを失うのが怖い。
という思いが自分の中にあることに、少なからず私は動揺している。
誤解が無いように書いておくが、私は人を憎むという概念そのものは嫌いだ。なるべく普段から、人の悪口は話半分に聞き、良い噂は信用するようにしている。人は皆誰しも良いところがあり、あまり知らない人のことを“嫌い”と早々と口にしてしまえば、それはその人の素晴らしい部分を知るチャンスを自分で潰すことになる。これほどもったいないことはないではないか。
ただ、自分の身を守るために、生きていくために、人を憎むということが必要になるときがある。
今まで3回それを経験した。その人をよく見つめた上で、自分の人生には要らないと自分で判断をした。信じていた人たちだったからこそ、彼らの行動が理解できなかったし、どうでもいいとは思えなかった。今までの感情が逆転して、好きから憎いに変わった。私はヒトを憎むとき、そのヒトから憎まれてもいい覚悟で憎む。言い方こそ変だが、手を抜かずに憎む。これは、好きになる以上にエネルギーが要る。だからこそ、簡単にはしない。これからそれを覆すつもりもなかったし、この感情は永久的に私自身のエネルギー源になっていくのだろうなと、6年前に思ったのだ。
しかし、80才、100才になった自分を想像したときに、この憎しみという感情はどうしても自分の中にあるとは思えないのだ。この点が、自分の中で、明らかに矛盾している。自分が思っているほど、永久的な覚悟などできていないのではないか。つまり、どこかで私はこの憎しみを手放そうと、手放したいと、そう願っているのではないか。あの人たちを許そうと、許したいと、思っているのではないか。
そうなのだ、この負の感情など、正直なところどこかにやってしまいたい。
しかしそれで自分は今までのように力強く進んでいけるのか。
腑抜けた人間になってしまわないか。
自分を見失いそうになったときに何にすがればいいのか。
そこのところが、考えても考えても分からないのだ。
だってもうしばらく、負の感情無しで生きていたことがないのだから。
それが自分の揺ぎ無い“芯”だったのだから。
偉人と呼ばれる歴史に名を刻んだ人たちは、何をモチベーションに進んでいったのだろう。
人はひとりひとり全く違う人生を歩んでいくのだから、それぞれに違う答えが出るのだろう。
私は私らしい答えを見つけなければいけない。
変化はいつの時代も人を不安にさせるものだが、
それでも前に進むために私は変わらなければいけないと直感的に思ったのだし、
その方向は何度考えてみてもやはり間違っていないと思う。
思い切って空に一歩踏み出してみるしか、なさそうだ。
Forgive your enemies (汝の敵を許しなさい).とその昔キリストは言ったが、
Forgive your enemies, but never forget their names (汝の敵を許しなさい、だが、決してその名前は忘れるな).とケネディーは言った。
さて、あなたは、どうする。
by supersy | 2008-06-30 22:30 | Way of Thinking

