Nothing will ever be "scientifically proven": 一流の人間が「科学的に証明された」という表現を嫌う理由。

SNSをやっていると変な人もいっぱい見かけますが(笑)、おっ、この人は良質な情報を、丁寧に言葉を選んで発信しているなぁ、プロとして見習いたいなぁ、と感じる嬉しい出会いがあることも多々あります(そういう方を私が一方的に知って喜んでいるだけなので、「出会い」という表現は大げさかもしれませんが)。

以前『女性医師 vs 男性医師?「死にたくなければ女医を選べ」は本当なのか』という記事でその論文について書かせてもらった津川友介さんという現UCLA大学助教授さんがいらっしゃるのですが、その方が4月に「世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事」というタイトルの本を出版する、という情報をツイッターで目にしました。津川先生は(前述のとおり一方的にですが)「良質な情報を丁寧に発信される方」だと見知っていたので、あらあら是非この本を手に取ってみたいわ、と思った反面、そのタイトルには少し引っ掛かるものを感じたのも事実です。率直に言ってしまうと「世界一シンプル」や「究極」はともかく、「科学的に証明された」という部分が、良識のある方が選んだにしてはあまりにキャッチーな誇張を含む表現じゃないかと感じたのです。しかし、先生の一連のツイートを見てなるほどねーと納得しました。




ちょっとつらつらと思ったことを書きますね。

「科学的に証明された事実」というのは「AはBである(A equals B)」とか、「AをすればBが起こる(A causes B)」とか、ちょっとやそっとのvariable(環境、状況付随する不確定要素)をいじってもびくともしない、絶対的に普遍な事柄(= The Reality)のことを指します。つまり、「AをすればBが起こる」という文章には「Aをすれば(いつなんどきも、誰が対象でも、どんな状況でも例外なく絶対に)Bが起こる」という隠された言葉たちが潜んでいるんです。見ていただければわかる通り、これらは非常に強い表現で、一切の限定性を許容しません。

はっきり言って、ここまで強い口調で断定できる事実なんてそうそうないんですよ。

もちろんこの多少のことではビクともしない「普遍的事実」を追いかけて、それをなんとか「証明」しようと研究者たちは日々努力を重ねているわけですが、研究で導き出せるのは限定的な関係性でしかありません。どんなに丁寧に研究をデザイン・実行しても、ひとつの研究で得られるのは「この環境、こういう被験者でこういう条件で実験を行ってみたらAがBを起こしました」という部分的な結論のみなんです。

例えば「平均年齢30.3歳の男性被験者200人を集めてAをやってみたらBになりました」という研究を受けて「へー、AをしたらBになるということが証明されたのか」という結論を出してしまうのは飛躍がすぎる考えで、これはOvergeneralization (過剰一般化)と呼ばれます。だってこの研究は被験者を女性に変えても同じ結果が得られるか、とか、被験者の年齢が50歳の場合はどうなんだ、とか、そんな多角的な検証を含んでいないからです。この研究が提供してくれるのはあくまで「snap shop(その一瞬、その場にいるメンツでぱちりと撮っただけの一枚の写真)」で、いつなんどき誰にでも当てはまる「普遍的な事実」は証明されきれていないのです。この非普遍性をより正確に表現しようと思ったら「AをしたらBになるということが報告(reported/documented)された」「可能性が示された(indicated)/示唆された(suggested)」という言い回しがより適切ですし、実際に論文などを読んでいて先行研究を振り返るような描写がある際にはこういう動詞しか使われません。

もうひとつ例を挙げます。例えば例えば、「ゴハンを食べたらウンチが出る」というのは極めて普遍的な事実で、科学的証明はきっと簡単だろうと思うでしょう?いえいえ、そんなことはないんです。実際にこの仮説を検証しようと思ったら、ありとあらゆる年齢層、性別、文化的背景の被験者を世界中から集めてゴハンを食べてもらって、実際にウンチが出るかどうかデータを取らなければいけません。中には深刻な腸梗塞を患っていて食べても食べてもウンチが出ません、という患者さんもいるでしょうし、逆に「私はゴハン食べなかったけどスムージー飲んだだけでウンチ出たわよ」って被験者さんもいるでしょう。そうなるともう「ゴハンを食べたらウンチが出る」という「絶対普遍的(であるはずの)事実」はアッという間に崩れてしまいますし、そもそも検証を行う前に何を「ゴハン」と定義すべきか(固形物限定なのか、飲み物の形態でもいいのか…)という用語の定義、コンセプトの共通理解も必要になってきますし、便秘気味かもしれない人も考慮して、「ゴハンを食べてからウンチが出るか確認するまでの期間は2日間と定義する」とか、色々と作らなければいけない約束事もあります。その場合、2.1日後に出たウンチはウンチと認められないわけ?と憤慨する人もいるでしょう。…ね、「事実」を科学的に検証、証明するって思った以上に骨の折れる、厄介なことでしょう?
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ドットアートっていうのがありますよね。ひとつひとつの「点」をキャンバスに落とすことで大きな像を作るという。研究者が追いかける「普遍的事実」が全体像だとしたら、一つの研究はそれに貢献するかもしれない(しないかもしれない)一つの点に過ぎません。「像」を完成させるのは、何千、何万人の研究者が何百年という時間をかけてポチポチポチと点を描き足していく必要があり、まぁそれはそれは気の遠くなるような作業なんです。研究者さんたちの気の長さには心から感服します…(ここらへんが私が研究者に向かない理由のひとつです)。

良識のある専門家は、「AをしさえすればBになる」と「事実」として何かを断言することがどれだけ難しいか知っています。今まで研究者が丁寧に積み重ねてきてくれた「点」に最大限の敬意を払うためにも、誇張を含む言葉を使わず「AがBということは有り得ますが場合によってはCという可能性もありまして…ここまでは報告されているのですが、ここから先はこういった検証をしてみないことには…」と言葉を選びながら丁寧に丁寧に表現するのが普通です。しかし世間一般の多くの人が知りたがるのはやはり「断定された事実」…つまり、結局全体像はなんなのよってところなのです。ウン時間寝れば長生きできる!とか、これさえ食べれば痩せる!とか、そういう無責任でテキトーで、解釈に難しくなくインパクトのある文句に目と興味を惹かれてしまうのです。ここにギャップが生まれるわけです。

普通に発信していては、この情報が一番届いて欲しいPopulationに情報が辿りつかない。ここで敢えて今回のキャッチーなタイトルを被せてきたのが編集さんのプロのマーケティング力ってやつなのかもしれません。津川先生自身もこの試みを「社会実験」と呼び、「正しい内容の本が軽いタイトルで売れるようになれは、それはそれで良いのかな」と仰っています。確かに、手に取らせたらあとはこっちのもん、ってところはありますよね。そこで初めて内容で勝負できる。逆に、手に取ってもらえなければ何もできない。私も今回のこの「社会実験」の結果に非常に興味があるので、果たしてこの本がどれだけ世間の心を掴むこととができるのか?わくわくしながら動向を見守りたいと思っています。

(あ、もちろん本のほうも帰国したら是非実際に読んでみたいと思ってます!)

ちなみに非医療従事者の方向けの「医療情報の読み方」で私が何かささやかでもアドバイスできることがあるとしたら、「文献引用表記の無い情報はまず読む価値がない」ということです。引用がある=信頼に足る情報であるとは限りませんが、引用がない=信頼に足らない、という公式はほぼ間違いなく全ての医療情報に当てはまることだと思います。専門家が書く文章はどんな対象に書かれたものであっても(専門家相手のカクカクの文章でも、一般の人相手のカジュアルな文章でも)必ず文献引用を伴わないといけません。それが丁寧に一つの点を置いてくれた研究者への最低限の礼儀ってものです。その礼儀の心もない方がまともなリソースを使ってまともな文章を書くとは思えないのです。

それから、本当に文章を書くのが上手な方は、文章のどの部分が誰の研究からのデータで、どこまでがその研究者さんの解釈で、どこからが著者独自の見解なのか、そしてどこからが筆者の(根拠に基づかない)個人的な意見なのか、はっきり区別して書いています。ここが曖昧な文章も、やはり怪しいと思ってください。

世間の皆様をがっかりさせるつもりはないのですが、世の中の殆どの事柄に対する答えは「It depends (時と場合による)」。真実とは「AはBだ」のような短絡的で断言可能なものでなく、「この場合はAに、あの場合ではBに、そして例外的にこういう状況ではCにもなったりします」という不格好で含みを持たせたものであるほうが圧倒的に多いのです。この曖昧さを少し気持ちが悪くても、仕方ねーなーと受け入れる心をお持ちください。情報の受け手である貴方が自らの責任で情報を吟味し、考え、それぞれの判断を下す手間をどうか面倒くさいと思わないでください。皆様自信の健康に関わることならば尚更です。個人的な意見とお願いではありますが。



ちなみに私も今回のブログのタイトルで少し「実験」をしています。私の仮説は以下の通りです(笑)。

1) 英語で始まるタイトルにしておくと、「お前絶対読んでないだろ!」と突っ込みたくなるアメリカ人の友達が絶対に一人はFacebookでイイネをしてくる。
**ちなみに私の知り合いでGoogle翻訳を駆使したりして、日本語で書いてあるこのブログを無理矢理読むツワモノもいないことはないのですが

2) 「一流の人間が~」などのチープな煽り文句を使うと、本当に一流の人間は「じゃあ自分ならきっともうやっていることだろう」と判断してこのブログを読まない。よって、このブログ記事に辿りつく人間の殆どが一流になることを夢見る二流三流の人間である。
**これは誰かを侮辱する意図はないので読み流してください…でもこんな長ったらしい文章を最後まで読んでくださった皆様は間違いなく超一流であることでしょう。ありがとうございます。

さぁ、マーケティングのセンスが皆無の私ですけど、この狙い、当たりますかね?

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  by supersy | 2018-03-23 22:00 | Just Thoughts | Comments(6)

Commented by 山本 at 2018-03-24 14:20 x
「一切の限定を許容しない」ことを「科学的に証明された」と表現することも非常に強い表現ではないでしょうか?
では、「科学的に証明された」ものの具体例をいくつか教えていただきたいです。
Commented by さゆり at 2018-03-24 14:42 x
すみません、私が山本様のご質問をきちんと理解できている自信がないのですが、だからこそ科学的に証明できることなどない、というタイトルにしたつもりです。私の文章に不満があったり、疑わしいと思ったり、納得いかないことがあるのは素晴らしいことですし、その場合は「コイツは何を言っているんだ、気にする価値もない」と結論付けていただければいいんですよ。わざわざコメントありがとうございます。
Commented by 山本 at 2018-03-24 20:33 x
すみません、「科学的に証明できることなどない」というところまで踏み込んだ結論をされているとは思いませんでした。
しかし、そのような結論だとして、「科学的に証明された」という言葉を「一切の限定を許容しない」「普遍的事実」として定義することは妥当なことなのでしょうか?歴史的にもそのように使われてきたとお考えですか?
Commented by さゆり at 2018-03-24 22:33 x
妥当と思うか→はい。歴史的にも→はい。
Commented by Mina at 2018-03-25 00:49 x
拝読しました。
最後の「実験」が面白いなと感じ、コメントするに至りました。
私がこちらの記事に辿り着いた経緯は、
津川さんのTwitterで引用リツイートされていて目にとまる→そもそも一流の人って?この記事ではどう考える人が一流なんだ?
という流れで興味を持ったからです。
一流を目指したいと思っているというより、一流ってなに?に近いです。
その他の理由として科学的根拠=正しい、の様にポジティブな認識があった為、なぜネガティブな印象なのだろうかと気になったからです。
マーケティング予想の一結果としてご参考になりましたら幸いです。
Commented by さゆり at 2018-03-25 01:45 x
Minaさん、コメントありがとうございます。実験の客観的な反応いただけて嬉しいです。興味を引くのには成功!した例ということですね。ややこしい書き方しましたが科学的根拠(scientific evidence)は議論を始めるにあたってなくてはならないものですし、本記事でその存在を否定をしているつもりではないというのが伝わっていれば幸いです。

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